鼠径(そけい)ヘルニアの症例。老人性の鼠径ヘルニアの症例。鍼灸治療。

鼠径(そけい)ヘルニア症例。
  老人性の鼠径ヘルニア

患者/80歳代後半の男性。

主な症状/脱腸(鼠径ヘルニア)。

症状/
 いつも、「体調管理」のために来院されている患者さん。
 「久しぶりに、脱腸が出た」と来院。
 鼠径ヘルニアと、腰痛予防のため、コルセットを常時着用。
 「(身体の)調子が悪くなり、疲れてきて、お腹の調子が悪くなると、たまに出てくるんや」という。

東洋医学的 四診
 脈診/80歳後半という高齢なので、脈管は弱くなっているが、それ以外、病的な感じは受けない。
 舌診/特筆すべきものは無し。
 腹診/上腹部は全体的に硬く筋張っている。
    左の上腹部は特にスジバリがきつい。
    下腹部は全体的に「虚」。
    鼠径ヘルニアは、右鼠径部に。
 触診/両足の太谿穴の辺りの「寒」がきつい。
    左足の小指側がひきつっている。
    患部は皮膚が盛り上がり、軽く熱を持っている。邪気をはらんでいるような感じではないので、それほどひどい炎症は起こっていないと思われる。

東洋医学的な概念的理解
 脈診、舌診では、病的なものは受けなかった。
 腹診では、下焦の「虚」が顕著にあった。この「虚」そのもが原因となって、鼠径ヘルニアを発症と考えられます。詳しくは後述します。

西洋医学的な理解/以下、『メルクマニュアル家庭版』より抜粋。
 
 鼠径ヘルニアは俗に「脱腸」とも呼ばれ、腸管などが鼠径部や陰嚢にはみ出してくるものです。腹壁の開口部は、先天性のものもあれば、後天性の場合もあります。
 鼠径ヘルニアになると、鼠径部か陰嚢に痛みのないふくらみができます。このふくらみは、腸管が重力で移動するため、立っていると大きくなり、横になると小さくなります。ときには、腸の一部が陰嚢にはまりこんで嵌頓(かんとん/何かにはまり込んで抜けなくなった状態。→石部補足)と呼ばれる状態になり、さらに腸の血流が遮断されて絞扼(こうやく)性ヘルニアという状態になることがあります。血流を断たれた腸管は、数時間以内に壊死してしまいます(壊疽[えそ])。
 手術で修復すればヘルニアの症状は改善されますが、手術を行うべきかどうかは、ヘルニアの大きさと不快感の程度によります。絞扼性ヘルニアは緊急手術が必要で、鼠径部の管状になった部分(鼠径管)から腸を引き抜き、ヘルニアが再発しないように腹壁の開口部を小さくします。

治療と経過

初診/某年11月13日
 治療は「法」に従う。詳細は後述。
 左の上腹部のスジバリがきつい部分を緩める。
 下焦の「虚」に補法。
 両足の太谿穴の辺りの「寒」に対して、温める様な刺法。
 最後に、ヘルニアが出ている部分の周りに、お灸(図を参照。灸点は4~5点。各、3~5壮)。
 しばらく、治療間隔をつめて来院するように指示をする。

治療直後(感想等)
 治療を終え、12時ごろ帰宅。軽くご飯を食べた後、「夕方の6時くらいまで昼寝してもうた」との事。いつもは昼寝をしない方。「昼寝をしたので、夜に眠れるか心配したが、夜もぐっすり眠れた」との事。
 うれしい反応。

第二診/11月15日
 うつ伏せができるようになったので、治療は「第一診」の治療に加え、志室穴を加える。

第三診/11月17日
 「十五日も、帰ったら眠くなった」との事。
 治療は「第二診」に同じ。

第四診/11月20日
 だいぶん、下焦の「虚」に力が出てきた(実になってきた)。
 「(鼠径ヘルニアが)ひどく出ないようになっってきたよ」と、患者さんも喜んでいた。
 治療は「第二診」に同じ。

第五診/11月27日
 「先週治療してもらってから(二十日以降)、まったく出なくなったわ」とのこと。
 治療は、通常の治療(腰痛、冷えとすじばり等の治療)にもどす。

感想

 この患者さんは、80歳後半という年齢もあり、「手術はなるべくしたくない」との事だったので鍼灸治療をした。
 いつもは、腰痛の予防もかねて、コルセットで腸が下がってこないように押さえつけているが、体調が悪くなると、「たまに出てくる」という。

 この患者さんの症例で興味深いところは、治療をした直後に、「睡魔」におそわれるところです。
 もちろんこれも、広い意味での「瞑眩」のあらわれ方の一つです。
 こういう場合は、眠気を我慢して起きていてはいけません。
 寝る必要があります。
 治療後に眠くなるのは、その患者さんの身体が、「寝ること=身体の休息」を求めているからであって、悪い現象ではありません。その証拠に、六時間近く昼寝をしたのにもかかわらず、夜もちゃんと寝られました。
 身体が休むことを欲しているからこそ、眠くなったのです。
 みなさんも、鍼灸の治療の後、眠くなったら素直に寝てください。

 さて少し、治療法の解説をしておきます。
 『鍼道発秘講義(横田観風著)』の第十二章の「疝気」の章には、

 『先ず徹腹、章門、京門を刺すべし。引き攣り、痛み強きには、環跳の辺を、深く多く刺すべし。或は腰眼、委中、心下に強(こわ)る者は、肩、項、両の手に引くべし、癒ゆる事妙なり。』

 と、あります。
 疝気とは、「元来は腹の病む病気のことであるが、後世になって、疝にいろいろな意味をもたせることになり、名称も、また説も一定したものがない。(中略) 臨床上の症状により、以下のように分類する。①体腔内容物が外に突出することの総称。多くの場合、気痛症状をともなうので、疝気、小腸気、小腸気痛などの病名がある。腹壁より突出するもの、腹股溝より突出するものなどがあり、また腹腔より陰囊に突き出しているものもこれに含まれる。ヘルニアの類をいう。(後略)」
 と、あります。また、

 「狐疝。腸が陰囊に陥入し上がったり下がったりして、横になっていたり手で推すと腹腔に入るが、立っていると陰囊に陥入するもの。これを狐が出たり入ったりしているようなところからこの名がある。ヘルニアの類である。」
 と、あります。鼠径ヘルニアは、この「疝気」の章を参照すると良いでしょう。

 患者さん自身が、「(身体の)調子が悪くなり、疲れてきて、お腹の調子が悪くなると、たまに(腸が、下に)出てくるんや」と言っていたところは、十分注意して聞いておくべき情報です。この事により、鼠径ヘルニアが出てきた原因が、「体調不良」からくる「下焦の虚」である事が分かります。
 「下焦の虚」によって、腸を支えていた筋肉が弱くなり、腸が下がり、ヘルニアを起こします。
 この「虚」に外邪が入り込み、「寒」が著しくなり、痛み、ひきつれるものを疝気といいます。

 具体的な治療法は以下です。

 「先ず徹腹、章門、京門を刺すべし。」の項目にしたがい、鍼をします。徹腹は腰部、志室穴付近に取ります。背部からお腹の状態を改善する時に多用される部位です。章門、京門は腹部の「虚」と「寒」を改善させるために使います。
 この患者さんの場合は、下焦の「寒」はそれほどでもありませんでしたが、「虚」が顕著でしたので、良く補っておきます。また、第二診以降、志室穴を使えたのが治療効果をあげるのに、大きな役割を担ったと思います。

 「引き攣り、痛み強きには、環跳の辺を、深く多く刺すべし。」とありますが、この患者さんの場合は、鼠径ヘルニアに関して痛みは有りませんでしたので、無視しても良いでしょう。ちなみに、「深く」ですから「寒」に対する刺方です。また、「多く」ですから、気を散ずる刺方ですから、患部は「実」です。つまり、「寒・実」です。「虚・寒」や「実・熱」の患者さんには良く遭遇しますが、「寒・実」は珍しい。

 次に、「或は腰眼、委中、心下に強(こわ)る者は、肩、項、両の手に引くべし、癒ゆる事妙なり。」とあります。腰眼穴は腰部にあるツボです。委中穴はひざの裏。両穴とも、この患者さんにはあまり関係がありませんが、「心下に強る者」はその通りですね。腹診のところで、「上腹部は全体的に硬く筋張っている。左の上腹部は特にスジバリがきつい。」と書きました。それがこれです。

 「肩、項、両の手に引くべし」は、治療によって邪気が侵入してきたルートを逆に戻ってきて、肩のコリや痛み、うなじや頭に新たな症状が出るのを回避するためです。

 疝気の章には、足の記述はありませんが、この患者さんの場合、太谿穴のあたりが極度に冷えていたので、太谿穴を使いました。また、下焦が全体的に「虚」していたので、それを補いました。
 この患者さんの場合は、この「虚」をちゃんと補っておけるかどうかに、再発するかどうかのカギもかかっていると思います。しっかり補い、上腹部のすじばりも緩めておきましょう。
 しかしなぜ、下焦の「寒」が顕著な疝気の治療に、足の要穴や下焦のツボ、例えば気海穴の様なツボを使い、温めたりしないのでしょうか?

 それはおそらく、下焦が「虚・寒」ではなく、「寒・実」だからではないでしょうか。「寒」の「実」が強すぎるので、直接患部に鍼をするのを避け、遠くから気を引っ張る様な刺方が多用されたものと考えられます。または、下腹部の痛みやヒキツリが強いので、安全を優先して避けたと考えても良いでしょう。

 しかしこの患者さんの場合は、それほどきつい「寒」ではなく、まだまだ「虚」の段階で、冷えてはいても「寒・実」ではないので、足の要穴や下焦のツボを使い、温め補う事により、諸症状の改善を見たものと考えられます。

 つまり鼠径ヘルニアにも、
 「虚」の状態で起こっている鼠径ヘルニア。
 「虚・寒」の状態で起こっている鼠径ヘルニア。
 「寒・実」の状態で起こっている鼠径ヘルニア。
 の別があるものと考えられます。

 「疝気」の治療法には、患部に直接治療を施す方法は書いておりませんが、この患者さんの場合、患部に「ガツン」と刺激を与えておきたかったので、患部付近に灸点を取りました。
 このお灸の位置は、注意が必要です。近すぎると、お灸の熱で患部が刺激され、腸が出入りする時に炎症を起こしている患部に、より一層の腫れ、痛み、熱などを起こす可能性があるからです。また患部から遠すぎると、治療としてまったく意味の無いものになってしまいます。

 「近からず、遠からず」の絶妙な位置に、「キュッ!」とひねったお灸をすえ、「ガツン!」と刺激してやります。

 イメージとしては、「もう、出てくるんじゃないぞ!」と、一発ぶん殴っておく感じです。
 「下っ腹も、しっかりせーよ!!」という感じでも良いかもしれません。
 殴るのが強すぎると相手が怪我をしてしまいます。しかし、弱すぎるとなめられてしまいます。
 あくまでも、100%の愛情をもって、「ガツン!」と一発、ぶん殴っておきましょう。